18、弟

気づくと5年、
大学の2年生の時に家を飛び出したきりで
実家には何の連絡もしないまま、かれこれ5年の年月が経過していた。


僕は、この期間、家族のことをほとんど何も考えずに過ごした


両親と二つ上の姉、五つ下の弟との五人家族。


振り返ると、僕と両親の関係はいかにも現代的なものであったように思う
両親は基本的に僕に甘かった
大抵は何でも買ってくれたし、勉強を除くと何事も僕に要求しなかった
しかし放任されていたかと言うとそうではなく
どちらかと言うと過干渉のきらいがあったように思う。


少年時代複雑なな家庭環境で育った父は僕等家族に対して、
どこか常に遠慮がちであった。


一方、母は独特のストイックな性格を有していたが
反面、不思議なユーモアがある形容しがたい人物であった
彼女は厳しいが母性的であり
恐ろしい母と言うイメージがぴったりくるようなタイプだ。


冷えた関係などと言うことは少しもなく
むしろ過分に情緒的でウエットな関係だったように思う


ただ、方向性
何の?
教育の?
家族の?
そう
明確な教育理念
明確な家族像を欠いていたという意味で
僕等の家族は現代的であった。
たとえかってあったそれが形骸に過ぎないものだとしても
辛うじて機能していたであろうに
僕等の時代、僕の環境にはもうその形式さえ存在が危うかった。


だから、躾やなにかは全て場当たり的であり
虫の居所がルールに勝った


そして将来の損得勘定と言うようなものが
教育の理念であった
つまり高度資本主義国日本を覆いつくしていた
「本音」という身も蓋もないイデオロギーがここでも全てであった


だから
「大学ぐらい行っとかないと損だよ」
すべてはここに集約された。


どこかスノッブを志向しながら
その基礎を欠く我が家。


しかし裕福であり
地元の名士でもあった


僕は反抗適齢期をむかえても、一向に両親に反抗しない子供であった
なぜならいつまでも幼い子供のように両親の叱責が怖かったからだ


僕はいつも対立を避け
食い違いそうな自分の意見は隠しておくという方法を比較的幼い時から身に着けた


姉は叱責や対立を少しも恐れず
正面から禁止の壁を切り崩しにかかった


弟は、僕のような二面性を持たない素直な子にそだったようだ


なんでも言い合える家族
我が家はそんな家族とはほど遠かった
どこか遠慮しあう、気を使いあう家庭であったように思う。


僕は大学の2年生の時
2年間かけて1単位も取っていないなどとは
けっして両親に言えなかった
そして、ただそれだけの理由で家族から遁走して
5年もの間電話ひとつしなかったのだった。


ある日、Yの家の電話が鳴った
ツーコール鳴らして一旦切ってから、もう一度鳴るのは僕への電話のサインだった
電話は高校の同級生Nからだった
Nが言う
「お前のな、弟からさぁ、俺に電話があってさ、なんか一生懸命にお前のこと探してるみたいだったぞ、いいかげんさぁ電話ぐらいしてやれよ」
と弟の電話番号を教えてくれた
番号は03ではじまっていた。


僕は、さして抵抗を感ずることもなく弟に連絡をとった
弟であれば両親に比べだいぶ敷居が低かった。


弟と電話で話した時のことは、ほとんど何も覚えていない
ただ僕は少し泣いたかもしれなかった
そして、弟が住む市ヶ谷で結婚し茨城にいるらしい姉と三人で会うことが決まった
たしか冬の始まりであったように思う。


市谷の駅の前で、壁にもたれて待っていると
後ろから声をかけられた
振り向くと、どこか見たような顔をした若い男がいた
どこで?
おそらくは鏡の中で。

その若い男はもちろん弟であった。


彼に最後にあったとき彼はまだ中学一年生だったはずだ
ころころと太って制服を着たスポーツ刈りの彼は
変声期も迎えておらず本当にこどもこどもしていた。


それなのにどうだ、今目の前にいる彼は
浅黒い肌をしたシャープな顔立ちの青年になっているではないか。


弟の住む、マンションは麹町郵便局のすぐ真裏にあった
ドアを開けると姉が既に来ていた
こちらは最後に見たときとそれほどは変わっていなかった。


話は、思ったより弾んだ
僕は、きっとまた少し泣いたのではなかったか?


母親は、その頃は落ち着いてはいたが
およそ一年ぐらい前オウム真理教のニュースが巷をにぎわしていた頃
僕がオウム真理教に入信しているのではないかと疑念を持ち
毎日、報道番組を目をさらのようにして見ていたという


結婚した姉の新居を訪ねる約束をして
夕方、Yの待つ家に帰った。