19、放蕩息子の帰還

5年ぶりに弟に再会したのは冬の初めだった
このころの僕の生活にはメリハリと言うものがまるでなく
正確に年代を思い出すことが難しいのだけれど


確か次の年の春だったと思う
僕はYが帰省するのに便乗して地元に帰った


実家と音信不通になっていたこの期間にも
僕は、こうしてたびたび地元にはこっそりと帰っていた
ただ家族に会わす顔がなかっただけのことだ


このとき帰省した際に
僕は嫁いだ姉の家を訪れるという約束を果たした


初対面の姉の旦那との挨拶もそこそこに
僕はなかば強引に車に乗せられ
実家に連行された
この辺はどうやらかねて計画済みだったようで
僕はまんまとそれに乗ってしまった。


車中どのくらいドキドキしたのかは覚えていない
あっさりと車は実家に着いた


実家の門をくぐり、そのまま玄関へ通る
すぐに母親が出てくる
彼女は僕の顔をみて
「どなた?」と冗談めかして言おうとするが
すぐに顔をくちゃくちゃにして
少しだけ涙をこぼした


それから
手を伸ばし僕の頬を張った
しかし、力がまるで入っていなかった
頬をなでられたようなものだった
「ど、どこに、いたの?」
つっかえながら彼女は言った。


愁嘆場は思ったより長くは続かなかった
やがて父親が奥から出てきた


彼は、努めてのんびりとした口調で
「おう、お帰り、そんなとこにいないで、まぁ入れ」
と言った。


家族は、僕の失踪を責めるようなことを
ほとんど何も言わなかった。


ただ母親が席を外しているときに父親から
母親が僕がオウム真理教に入信しているのではないかと
夜も眠れずに心配していたということは言われた。


話題は、主に僕がいない間に起こったもろもろの事柄
姉の結婚
亡くなった親戚
そんな話だ。


僕は、問われるままに自分のことを少しづつ話したが
何年も無為にすごしたと、
Yと同棲していることは言い出せなかった。


こんなことだから、僕はいつまでも
もっと楽な親子関係が築けなかったのだろう


友達と同居していると
それが女であるということを両親は当然の前提として話しをしだした
なにもかも見透かされているようだった、子供のころと変わらない。


僕にこのように言いえる資格があるとは到底思えないが
それを今棚上げして言えば
家出という荒療治のおかげで僕と両親の関係は
多少は好転したと言えるのではないかと思う。


それは単に僕の家出の効果だけでなく
姉の駆け落ちなどもあり
両親は子供等に自分たちの意志を押し付けても
仕方がないということを学んだのだと思う、
それにそこにはもちろん子供等が少なくても
年齢的には大人になっていたということも
あったに違いない。


しかし、後にわかるように
僕には両親への、そして依存させてくれるあらゆる人々への
依存体質がまだ途方もなくのこっていた。


その日は早々に辞して
友達の家に泊まった。


それからは、時々、実家に帰るようになった


そして1997年26歳の夏


まるで子供が夏休みを田舎のおじいちゃんの家で過ごすみたいに
僕は一ヶ月ほど実家に帰省した
ギターと数冊のノートをもって


作曲に打ち込むためと言う名目だった。