21、焼けぼっくりは良く燃える 弐

漁港に停めた車が夏の夕暮れに包まれたころ
僕は、Tに正確になんと言ったのかは忘れたが愛の告白めいたことをした


しかし、それはあまり自発的なものではなかった
Tの誘導に従って相槌をうつような形でなされた告白だった


しかしTにはそれで充分だったようだった
僕の目をのぞき込んで
「ね、しないの?キス?」
と言う
「うん、ああ俺のタイミングで」
と僕は答える


その一瞬後
僕はTに覆いかぶさった
高校生だった頃には考えられないことだが
Tは僕の手を握りそれを自分の乳房に運んでいくではないか!
そして、そこは思いもよらぬボリュームで僕を迎えた


単なる偶然ではあったが
その日僕の両親は旅行に出かけていて
実家には僕と弟しかいないのだった
これこそ千載一遇のチャンスではないか?
このシチュエーションならお釈迦様でも実家へTを連れ込むはずだ。


僕の実家へと向かう道々
運転するTに
「早くしたいね」
と言葉で言っただけなのに、Tは
「ダメッ、運転できなくなっちゃう」
と小さく叫んだのだった


今考えると安物の官能小説のようだが
このときはえらく興奮したものだ。


僕らはよほど漁港に長居したものらしく
実家に着いたのはもう夜もだいぶ遅い時間だった
おあつらえむき弟も家にいなかった。


そこでまぁ、はじまったわけだけれど
はじまってすぐに車の音、車のドアが開けられ、閉じられる音
玄関のドアが開けられ、閉じられる音
階段を登る足音
隣の部屋へ人が入る音
が順番に聞こえてきた


弟が帰ってきたのだった。

僕はナーヴァスになってしまい出来なくなってしまった。
それでTはだいぶ不機嫌になってしまった
だいぶ時間を置き弟が寝入った頃ぼくらは再開した


そして僕らはようやく仕事を終えた。
しかしその首尾は到底満足のいくものではなった


僕は正直、ほとんど快感を感じることができず
果てるまでにうんざりするような時間を要した
さらに僕は途中で何度か不可能な状態になり
Tは自分の性器を指差して哀しそうに
「あたしのここダメなの?」
とずいぶん直接的なことを言ったりしたりした


そう、残念なことに僕らの相性は良くなかったのだった。


しかし、僕は着衣の時には全く想像できないTの裸の美しさに完全にやられてしまった
とりわけ、その白くて吸い付くような感触の肌が不思議に輝く様子と
意外すぎる豊かな乳房の魅力に。



一方、乳房こそ小ぶりではあったが東京での同棲相手Yと僕の身体の相性は
もう空前絶後といってよいほど完璧なマッチングぶりだった
そういう意味では軍配は完全にYにあがっていた。


しかし人間の欲求は一筋縄ではいかない
そして僕の愚かさ加減もまた一筋縄ではいかないのだった。

20、焼けぼっくりは良く燃える 壱

というわけで僕は
1997年の夏を実家で過ごすことになった


いい歳をした長男が一ヶ月も仕事を休んで帰ってくるわけだから
ちゃんと仕事してないなんてことはもうバレバレなわけで
それだけで両親を嘆かせるには充分なノリで挑んだわけだ。


帰ってきてそうそうに起きてくるのは昼近くだ
もろもろの研ぎ澄まされたダラしなさは
東京での普段の生活を余すことなく家族に告げていた


さて僕はこの頃家で何をしていたのだろう?
答えは音楽理論の勉強だった、
さながら自由研究のように僕は以前に触れたように「チック・コリアの音楽」を読み
その和音をギターに応用すべく膨大なチャートを作っていた。


しかし肝心の作曲はさっぱり進まなかった
一曲だけ凝った響きの和音が平行移動するところに
メロ・ラップが乗る曲を途中まで作ったぐらいだった。


この夏は楽しかった、特に何をしたというわけでもないのに
僕は妙にうきうきと日々をすごした、
それは実家の贅沢な生活によるところが大きかった
東京に帰ってまたYと貧しい暮らしを再開するのに
躊躇を感じるほどに実際にそれは快適であった。


この夏は僕にとって
シアター・ブルックのファースト・アルバム「タリスマン」の夏でもあった
何のことはない、この夏ひっきりなしに聴いていたというだけの事に過ぎないのだけれど。
これをかけながら弟の運転で水戸にMTRを買いに行った事を鮮明に思い出す。


さて夏も盛りを過ぎた頃、すっかり退屈しだした僕は、ふとした気まぐれから
高校三年生だった頃に一年間ほど付き合ったが
やがて僕に「新しい恋人」が出来たせいで別れた女の子T
(3、まだ前哨戦に詳しい)
に電話をしてみることにした。


電話をかけたのは昼過ぎだった、
電話に出たTの母親は、僕を覚えていた
かなり不審そうではあったがTに取り次いでくれた。


約7、8年ぶりに聞くTの声は昔と変わらなかった
けんもほろろに扱われるかと思いきや
意外にも会話は弾んだ
そして、あっという間にその日数時間後に会う約束ができた。


念入りに髪を整えていると車の音がした
運転の出来ない僕を約束どおりTが迎えに来てくれたのだった


少しも変わらないT、いや少し可愛くなったろうか?
高校生の時は多少はあった化粧気がいまやすっかり無く
完全な素ッピンだ。
高校の頃僕の周りにいたほとんど全ての人がそうであったように
Tもかってはかなり凝った服装をしていたが
今や何の飾り気の無いボタンダウンのシャツにジーパンだった
その方がTには良く似合っていた。


車で北茨城に向かい、人気のない漁港に車を止めた
こういう場合誰もがするように
僕等は過ぎた年月と現状を報告しあった
ここで僕は早くもTに嘘をついた


「Mくん、今、彼女は?」
と訊かれた僕は
「いや、いない独りだよ」
とマルコの福音書におけるペテロのように答えたのだ。
このとき嘘をついたのは、
僕がバカで、スケベで、身勝手だからという事のほかに
このとき、まだこうしたことで痛い目にあったことがなかったという部分が大きかったろう。


ここで高校時代の、僕とTの馴れ初めと付き合いに方について軽く触れておこう


高校時代、僕とTの間には身体の関係は無かった
クリスマスに僕の実家のコタツで、身体を硬くしたTにキスをしたぐらいだ
そのとき僕の足は緊張のあまり、瘧を起こしたように激しく痙攣をおこして
それを観てTは少し笑ったものだ


とはいえ僕はそのころ童貞ではなく
Tの前に付き合った女の子(Tの友人だった、以下説明のためXとする)
には、僕が会うたびに身体ばかり求めるものだから
「あたしは、タケ坊のオモチャじゃないんだからね」とまで言われたものだった。


Xと別れたあと、僕はXより前に付き合っていたZとヨリを戻したいと考えた(数学か?)
しかし父親が過度に厳格なZの家に電話するのは固く禁じられていた
考えあぐねた僕は、Xを介して一度会った事のあったTがZと同じ学校であったことを思い出した
そしてTにZへの手紙を言付けようと、喫煙が黙認されていたため高校生の溜まり場になっていた喫茶店にTを呼び出した。


電話で大体の事情は話してあったけれど、いざTを目の前にすると
僕の脳みそからZの面影は一瞬にして吹き飛んだ
Tは可愛い女の子だった。
そして美貌だけが取り柄だったZと違い、Tの話は面白く
僕の話をとても面白そうに聴いてくれるのだった。


僕は、手紙を言付けることをやめた
その代わり高校の昼休みに一週間連続でTを呼び出した
おかげで僕等はその週の午後の授業を全部サボることのなった


一週間目、同じ喫茶店
僕は、やっと交際して欲しいと切り出した
Tはウフフと笑い、おかしそうに言った
「もう、やっと言ったね?」
こうして僕等は付き合うことのなった。


後にTは言ったものだ
「あたし、最初XちゃんとMくんが一緒にいるの見た時から、あたしがこの人と付き合うって決めてたの」
と。


このように書くといかにも当時の僕がイケていたように思われそうだ
そう思ってもらえたらむしろ本望ではあるが
事実はそうではなかった
そう読まれては、今後の僕の行動が理解できなくなるだろう


僕がこの当時モテていたとしたら
それはひとえに僕が着飾っていたせいだろう
ご存知のとおりこの年頃のある種の少年少女にとっては
おしゃれ=正義であり
この公式上では僕は完全な正義の味方だった。


更にまた、この年頃ではありがちなことだが
僕は南米の超債務国の借金ばりに膨れ上がった自信を抱えていた
それが僕に何がしかの魅力を与えていたのだろう。


ただし、ここは今後の僕の人生を理解するうえで重要だから
強調しておきたいが
その過剰な自信の中には、容姿に対する自信は含まれていなかった
僕の容姿は良くて十人並み、悪くすりゃ不細工ですらあった
少なくても自分ではそう思っていた。


容姿に劣等感を持つ人間の多くがそうであるように
僕もまた人一倍自分が好きであった
容姿に劣等感を持つナルシス
まるで太宰治の「晩年」の主人公のように。


僕とTは高校三年の一年間
ほぼ毎日のように放課後会っていた
そのうえ毎晩のように長電話をしあった


授業中、僕はTに手紙を書いた
絵の上手なTは授業中に描いた「作品」を僕にくれた


Tは、身体の関係を拒んだ
僕は早い段階でそれを断念した、なぜかは分からないが
実のところ当時僕はあまりTの身体を求めてはいなかった。


一見すると可愛らしい高校生の恋愛であったが
僕はこの頃、すでにいろんな女の子に目移りしていた
もし、当時僕が働きかけた女の子の中に芳しい反応を返してくれる娘がいたら
おそらく僕はたやすくそちらに乗り換えたのではないだろうか?


別に僕は懺悔/告白をしているわけではない
そんなことはありふれた話しに過ぎないのは承知している。


ただなるべく正確に書きとめておきたいだけだ

19、放蕩息子の帰還

5年ぶりに弟に再会したのは冬の初めだった
このころの僕の生活にはメリハリと言うものがまるでなく
正確に年代を思い出すことが難しいのだけれど


確か次の年の春だったと思う
僕はYが帰省するのに便乗して地元に帰った


実家と音信不通になっていたこの期間にも
僕は、こうしてたびたび地元にはこっそりと帰っていた
ただ家族に会わす顔がなかっただけのことだ


このとき帰省した際に
僕は嫁いだ姉の家を訪れるという約束を果たした


初対面の姉の旦那との挨拶もそこそこに
僕はなかば強引に車に乗せられ
実家に連行された
この辺はどうやらかねて計画済みだったようで
僕はまんまとそれに乗ってしまった。


車中どのくらいドキドキしたのかは覚えていない
あっさりと車は実家に着いた


実家の門をくぐり、そのまま玄関へ通る
すぐに母親が出てくる
彼女は僕の顔をみて
「どなた?」と冗談めかして言おうとするが
すぐに顔をくちゃくちゃにして
少しだけ涙をこぼした


それから
手を伸ばし僕の頬を張った
しかし、力がまるで入っていなかった
頬をなでられたようなものだった
「ど、どこに、いたの?」
つっかえながら彼女は言った。


愁嘆場は思ったより長くは続かなかった
やがて父親が奥から出てきた


彼は、努めてのんびりとした口調で
「おう、お帰り、そんなとこにいないで、まぁ入れ」
と言った。


家族は、僕の失踪を責めるようなことを
ほとんど何も言わなかった。


ただ母親が席を外しているときに父親から
母親が僕がオウム真理教に入信しているのではないかと
夜も眠れずに心配していたということは言われた。


話題は、主に僕がいない間に起こったもろもろの事柄
姉の結婚
亡くなった親戚
そんな話だ。


僕は、問われるままに自分のことを少しづつ話したが
何年も無為にすごしたと、
Yと同棲していることは言い出せなかった。


こんなことだから、僕はいつまでも
もっと楽な親子関係が築けなかったのだろう


友達と同居していると
それが女であるということを両親は当然の前提として話しをしだした
なにもかも見透かされているようだった、子供のころと変わらない。


僕にこのように言いえる資格があるとは到底思えないが
それを今棚上げして言えば
家出という荒療治のおかげで僕と両親の関係は
多少は好転したと言えるのではないかと思う。


それは単に僕の家出の効果だけでなく
姉の駆け落ちなどもあり
両親は子供等に自分たちの意志を押し付けても
仕方がないということを学んだのだと思う、
それにそこにはもちろん子供等が少なくても
年齢的には大人になっていたということも
あったに違いない。


しかし、後にわかるように
僕には両親への、そして依存させてくれるあらゆる人々への
依存体質がまだ途方もなくのこっていた。


その日は早々に辞して
友達の家に泊まった。


それからは、時々、実家に帰るようになった


そして1997年26歳の夏


まるで子供が夏休みを田舎のおじいちゃんの家で過ごすみたいに
僕は一ヶ月ほど実家に帰省した
ギターと数冊のノートをもって


作曲に打ち込むためと言う名目だった。

18、弟

気づくと5年、
大学の2年生の時に家を飛び出したきりで
実家には何の連絡もしないまま、かれこれ5年の年月が経過していた。


僕は、この期間、家族のことをほとんど何も考えずに過ごした


両親と二つ上の姉、五つ下の弟との五人家族。


振り返ると、僕と両親の関係はいかにも現代的なものであったように思う
両親は基本的に僕に甘かった
大抵は何でも買ってくれたし、勉強を除くと何事も僕に要求しなかった
しかし放任されていたかと言うとそうではなく
どちらかと言うと過干渉のきらいがあったように思う。


少年時代複雑なな家庭環境で育った父は僕等家族に対して、
どこか常に遠慮がちであった。


一方、母は独特のストイックな性格を有していたが
反面、不思議なユーモアがある形容しがたい人物であった
彼女は厳しいが母性的であり
恐ろしい母と言うイメージがぴったりくるようなタイプだ。


冷えた関係などと言うことは少しもなく
むしろ過分に情緒的でウエットな関係だったように思う


ただ、方向性
何の?
教育の?
家族の?
そう
明確な教育理念
明確な家族像を欠いていたという意味で
僕等の家族は現代的であった。
たとえかってあったそれが形骸に過ぎないものだとしても
辛うじて機能していたであろうに
僕等の時代、僕の環境にはもうその形式さえ存在が危うかった。


だから、躾やなにかは全て場当たり的であり
虫の居所がルールに勝った


そして将来の損得勘定と言うようなものが
教育の理念であった
つまり高度資本主義国日本を覆いつくしていた
「本音」という身も蓋もないイデオロギーがここでも全てであった


だから
「大学ぐらい行っとかないと損だよ」
すべてはここに集約された。


どこかスノッブを志向しながら
その基礎を欠く我が家。


しかし裕福であり
地元の名士でもあった


僕は反抗適齢期をむかえても、一向に両親に反抗しない子供であった
なぜならいつまでも幼い子供のように両親の叱責が怖かったからだ


僕はいつも対立を避け
食い違いそうな自分の意見は隠しておくという方法を比較的幼い時から身に着けた


姉は叱責や対立を少しも恐れず
正面から禁止の壁を切り崩しにかかった


弟は、僕のような二面性を持たない素直な子にそだったようだ


なんでも言い合える家族
我が家はそんな家族とはほど遠かった
どこか遠慮しあう、気を使いあう家庭であったように思う。


僕は大学の2年生の時
2年間かけて1単位も取っていないなどとは
けっして両親に言えなかった
そして、ただそれだけの理由で家族から遁走して
5年もの間電話ひとつしなかったのだった。


ある日、Yの家の電話が鳴った
ツーコール鳴らして一旦切ってから、もう一度鳴るのは僕への電話のサインだった
電話は高校の同級生Nからだった
Nが言う
「お前のな、弟からさぁ、俺に電話があってさ、なんか一生懸命にお前のこと探してるみたいだったぞ、いいかげんさぁ電話ぐらいしてやれよ」
と弟の電話番号を教えてくれた
番号は03ではじまっていた。


僕は、さして抵抗を感ずることもなく弟に連絡をとった
弟であれば両親に比べだいぶ敷居が低かった。


弟と電話で話した時のことは、ほとんど何も覚えていない
ただ僕は少し泣いたかもしれなかった
そして、弟が住む市ヶ谷で結婚し茨城にいるらしい姉と三人で会うことが決まった
たしか冬の始まりであったように思う。


市谷の駅の前で、壁にもたれて待っていると
後ろから声をかけられた
振り向くと、どこか見たような顔をした若い男がいた
どこで?
おそらくは鏡の中で。

その若い男はもちろん弟であった。


彼に最後にあったとき彼はまだ中学一年生だったはずだ
ころころと太って制服を着たスポーツ刈りの彼は
変声期も迎えておらず本当にこどもこどもしていた。


それなのにどうだ、今目の前にいる彼は
浅黒い肌をしたシャープな顔立ちの青年になっているではないか。


弟の住む、マンションは麹町郵便局のすぐ真裏にあった
ドアを開けると姉が既に来ていた
こちらは最後に見たときとそれほどは変わっていなかった。


話は、思ったより弾んだ
僕は、きっとまた少し泣いたのではなかったか?


母親は、その頃は落ち着いてはいたが
およそ一年ぐらい前オウム真理教のニュースが巷をにぎわしていた頃
僕がオウム真理教に入信しているのではないかと疑念を持ち
毎日、報道番組を目をさらのようにして見ていたという


結婚した姉の新居を訪ねる約束をして
夕方、Yの待つ家に帰った。

17、ハックルベリーフレンド

映画「ティファニーで朝食を」のなかでオードリー・ヘップバーンが歌う
ムーン・リバー」の歌詞のなかに
「マイ ハックルベリーフレンド」というくだりがある


直訳するなら
「私の苔桃のような友達」となるが
僕はここには絶対に
トム・ソーヤの冒険」の中のトムの悪友
ハックルベリー・フィン」のイメージが投影されているはずだと思っている。


つまり意訳すると
「私を冒険にいざなう古い悪友よ」と言う感じかな?


僕にも、そんな友達が何人かいた
臆病な僕を、良識的な世間が眉をひそめるような冒険に誘い出してくれた友達が。


彼らは概して独りでいることが多かった
沢山の人に囲まれているときでも、どこか集団には馴染まない感じがした。


そして彼等は
臆病な僕などにはとても怖くて出来ない
世間や常識や法律からはみ出してしまうような
あるいは物理的に身の危険が及ぶような
乱暴で危険な行為を平然とやってのけた。


僕は、そういう人間に出会うとすぐに感化されてしまうのだった
そして恐る恐る彼の後をついて行き
へっぴり腰でその真似をするのだ。


そんな「ハックルベリーフレンド」の一人に
僕はこの頃アルバイト先の書店で出会った。


H君はなにせ良く目立った
エキセントリックな服装や立ち振る舞いに加えて
体格までもがエキセントリックであり
とりわけその顔が強烈にエキセントリックであった


たとえエキセントリックな風体の若者が当たり前のようにたむろしている場所でも
彼はとにかく目を奪う存在であったと言おうか
思わず振り返ってもう一度見直すような姿格好、服装、そしてなにより顔をしていた。


系列のビデオ屋に僕が出向した時に一緒に働いたのが出会いだった


彼はとにかく
無意味に反抗的で欲求不満の塊りのような人であった
なにしろ酷く毒舌だった
目に映るすべてが気に入らないようであった


彼の舌鋒で
同じバイト先の大学生は、大学生というだけで
価値のない人間ということになり
客としてくるサラリーマンはサラリーマンというだけで
下らないゴミということになった


とりわけバイト先の店長に対する毒舌には
何か病的なものを感じさせるような激しさがあった。


しかし彼の悪口には卓越したセンスが感じられた
そう彼は実に面白い男だった


僕等は、すぐに意気投合し
まもなく僕は彼の家に遊びに行くようになった


彼は当時、小劇団の座長を務めていて
自ら脚本を書き、主演、演出も手がけていたようだった
僕は結局一度も彼の芝居を観に行かなかったが内容はコメディだったようだ


彼の周りは敵が多かった
彼自身元々は僕等が住んでいた鶴川駅に校舎のあった和光大学の出身だった


アルバイト先の大学生たちもほぼその大学に在籍している者で占められていた
その学生たちから
彼がキャンパス内の有名人だったこと
それも良い意味でではなくトラブルメイカーとして有名だったことを教えられた。



僕はあるとき何の気なしにこの評判のことを彼に伝えてしまった
そのときの彼の怒りようは通り一遍のものではなかった
彼は僕には想像のつかないレベルで周りを敵視しているのだと
僕もこの時にようやく理解した。


彼は、そのとき同棲していた彼女を
唯一の理解者、味方と見なしているようだった。


僕は彼に誘われて治験
つまり人体実験のアルバイトに行くようになった。


それは新薬の認可のためのもので
僕等は、病院に数日入院して新薬を飲んだり、注射されたりするだけでよかった
一日に数度採血されることと禁煙の苦しみさえ我慢できれば
後はマンガを読んだりしているだけでよかった


しかしその退屈さはかなりのもので
ある時など僕は病院にあった「うる星やつら」と「めぞん一刻」を
一気に読了してしまったほどだ、しかしそれでも時間は有り余った。


期間は薬によってまちまちで
報酬は期間によって違ったが、確か2週間ほどで10万円を越したはずだ
今考えると決して割がいいバイトとも思えないのだが
当時の僕等には何もしなくて金が入ると言うのが大変な魅力だったのだ。


この治験で知り合った中に「村上龍」に顔がそっくりな人がいた
この人は後にHくん経由で入ってきた旨い話しにのって
詐欺に遭い、酷い目を見た。


Hくんが持ってきた旨い話と言うのは、こうだ。


色々なサラ金に行き自分の名義で限度額までお金を借りる
そしてある調査会社にそのとき作ったカードと借りた現金を全て渡す


すると次の日には、調査会社がサラ金各社に全額返済を済ませる
そのうえ自分の口座には借りた総額の一割が振り込まれている。


これ以上怪しくなりようがないほど怪しい話しだったが
 H君は
「自分はもうやったけれどちゃんと返済されたのは確認したし、
借りた300万円の一割30万円もしっかり振り込まれていた」
と請合い


僕と「村上龍」にもその「旨い話し」にのることを勧める
のだった


僕は、もちろん乗らなかったが
村上龍」はその話に飛びついた
結果は勿論、当然、詐欺。


彼は数百万の借金を背負うことになった
最後に話したとき彼は
「故郷の北海道に帰るしかない」と言っていた


その後この「村上龍」の姿を僕は見ていない。

16、ずるずる這い出す

結局、僕は鶴川駅の近くの書店でアルバイトをすることとなった


そこは例の覚せい剤の一件のあった本屋とは、また違う本屋で


近くに関連のレンタル・ビデオ屋、レンタルCD屋などがある
その中のひとつで本だけでなく、中古のゲームなども扱っているお店だった


僕は、今までのバイト人生とはうって変わった真剣さでここの仕事に取り組んだ


スタッフのほとんどが大学生のこの店で、
千円にも満たない安い時給で
僕は、ほとんどなりふり構わないといってもよいぐらいの勢いで働いた


同僚にこんな奴がいるほど煙ったいものはないものだ
クールな大学生は苦笑混じりに僕の働きぶりを見ていた。
確かに仕事の内容は掃除や品出しといった
面白くもなんともないルーティン・ワークばっかりだった。


しかし僕には僕の事情があった
生活のため金銭のためでなく
神経症的な症状をなんとかするためだった


一日6時間労働で週5日、労働時間は至って少なく
収入は月10万足らずだった


一ヶ月経っても、二ヶ月経っても、3ヶ月経っても、半年経っても
今度の僕はこのアルバイトを辞めなかった。


一応定期収入の出来た僕は、Yに家賃や光熱費の半額を払うことを申し出たが
Yは
「いいよ、いらない、お給料はダーリン使いなよ」
と受け取ろうとしなかった


僕もこの件については、あまりと言うか、実のところ全然強く主張せず
いとも簡単に折れて、ちゃっかりYの提案にのった。


つまり僕の収入は食費などを除けば、ほぼ全額僕の自由に使えることになった
妙に改心していたこの頃の僕は、
たしか月に1〜2万円ぐらいのお金を貯金していたような気がする


この頃の僕は酷い格好をしていた


当時の僕が着ていた洋服は
Yが実家に帰ったときに探して持ってきてくれた
Yの兄が中学生の頃着ていたというもので
流行からはずれているなんて生易しいものではない
もう誰も着ていないようなひと昔もふた昔も前の中学生の服だった。


髪型はといえば
Yに切って貰ったなんとも形容しがたいおかっぱみたいなスタイルだった


靴もYにスーパーで千円以下で買ってもらった、
よくその辺でおじいちゃんが履いているようなスニーカーだった。


この生活を始めるまでの僕は服装や髪型に大変こだわっていたもので
むしろその方面では自分は進んでいるとの自負があった
高校の頃の僕はピーコ張りの辛辣なファッション評論家の様ですらあったのだ。


しかしこの頃の僕からはそんな面影は微塵も感じられなかったはずだ
アルバイトの大学生には相応にお洒落な人もいた
僕はその大学生達にほんとの自分はこんなじゃないと言い訳したかった。
自分の姿が恥ずかしかった。


そして気づかないうちに、僕はずいぶん太っていた
そりゃもちろん太りもするだろう
およそ5年もの長い間、僕は家でゴロゴロしていただけだったのだから
しかも身や目に頓着しなくなった僕は
自分が太ったことに気づいてさえいなかったのだ。



僕は先ず筋肉をつけるトレーニングをすることからはじめた。


もともと筋肉の付きやすい体質だったせいか
2週間もするとだいぶ見た目が変わってきた
2ヶ月も経つ頃には見違えるように引き締まった身体になった
そして、それ以降はもう太ることはなかった。


系統立った計画に従って本を読んだ
独学で英語を勉強するようになった。


そのうちに僕は自分の洋服を買いだすようになった
ブランクが長すぎて、はじめのうちは何を着たら良いのか分からなかった
そこで以前の僕なら
大衆向けだとかいってバカにしていたようなファッション雑誌
例えば「smart」なんかを参考にしだした


そのころ世間にはレプリカのジーンズが溢れていた
僕は何本もそれらを買い漁った


髪の毛はそれなりの美容室で切るようになった。


そして一年が過ぎる頃には
精神状態はすっかり安定し


アルバイトも適当に手を抜いてサボりながらやるようになっていた
気にいった本や雑誌は家に持ち帰るようになった
こういうところは以前と少しもかわらない


バイト先に友達らしきものもできた
僕は快癒したのだ。


そして僕はだんだんとY以外の女の子と遊びたくて仕方なくなっていた


具体的に対象となる女の子がいたわけではない
女の子を通して自分の価値が知りたかったのだ


自分の価値を
女の子の欲望によって
女の子の欲望の対象になることによって
確認したいという欲求があった



自分は価値ある男だ
だってこんな可愛い女の子から求められているんだから
と言う図式だ。


僕のような男はこういうことでしか自分の価値がわからないのだ


アクセサリーとして他人に見せ付けるためにイカす女をつれて歩くというのと
大体同じなのだろうけれど
僕の場合は他人の目は重要ではなかった
見せ付けたい他人は自分の中にいた。



そして極めつけのいい女ひとりと言うのではなく
不特定多数の女の子にちやほやされたかった
つまりはモテたかった。


そのこと自体は
べつに珍しいことでも取り立てて言うほどのことでもない
ただ僕の場合は自分の欲求を制御する力が弱かった。


それに
僕にはYのおっぱいの小ささが大きな問題に思えだした
というよりは


おっぱいの大きい女の子


それが欲しかった。


アダルト・ビデオの中の女の子の方が


現実にそこにいるYより魅力的に見えて仕方なかった。

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おっぱいコラム


後年、僕は願いがかなって
悲願であった大きかったり、美しかったりする
立派なおっぱいたちとの出逢いをはたした。


しかし、いざ願いがかなって
待ち望んだいたとおりに
それをもんだり、しゃぶったり
そんなことをどれだけしてもどこか物足りない


興奮の最中、ふと頭の一部分が冷静になり
そして思う
「俺は、本当にこんなことがしたかったのか? 
 これがあんなに欲しかったものなのか?」


それどころか、それは例え僕の手の中にあっても
僕に属さず、どこまでも無限に僕の手をすり抜けていく
結局、どれほど間近にに在ってもそれを真に手にすることは出来ないのだ


僕はそのおっぱいで何がしたかったのか分からなくなった。
どうすりゃ満足できるのかが分からなかった


おっぱいに裏切られたような気がした、騙されていたような気がした


フェティッシュの対象とは結局そのようなものなのだろう
言ってしまえば脂肪の塊りに過ぎない部分に
記号としての意味を付与する
しかし記号はどこまで行っても記号であることをやめない
記号はそこにありつつ、そこにない。


記号ははいつも寸前で身をかわし逃げ去っていき
欲望はいつも直前ではぐらかされる


いわば、僕はおっぱいによって疎外されているのだ。
マルクスの言う意味の疎外がそこにはある。


そして男はそこに開いた空白を埋めるべく
おっぱいを愛撫することで女の子に快感を与えて、
それにより(想像の中で)相手を支配するという方向に
欲望をすりかえていくのだろう。


更に言えば
その空隙を一気に極端な形で埋めようとすると
例えばそれは快楽殺人などの形をとり
殺した女の乳首を集めたりするのではないか?
しかし言うまでもなく、それで空隙が満たされるはずはない

15、背に腹は

ヒモ時代の僕の主な活動は読書だったとは前にも書いた。


このころの僕は現代思想の本や
そのルーツとなる精神分析学、マルクス経済学、
文化人類学ニーチェバタイユなどの本を
やたらと読んでいた。


まさにバカとハサミは使いようで
柄谷行人の本を読んでは全てに疑い深くなり
精神分析学の本を読んでは
自分の正気を疑うようになった。


そんな頃
僕は胸の奥の方に痛みを覚えるようになった
肺だか心臓だか分からないが
どこかそのあたりが鋭くかつ重く痛むのだった。


それで、僕は自分が心臓病か肺ガンではないかと疑うようになった
一度疑い始めるとますますそうであるように思えてきた
こうなると肺ガンでない理由を探す方が難しくなる


さっさと病院に行くべきだと、今では僕も思うけれど
当時の僕は保険証も持っていなかったし、
とにかく病院に行くと疑念が本当になり
余命を宣告されると思い込んでいるのだから行けるわけがない


僕は、少しで長生きするためにタバコをここから2年間止めた。
更になぜか肉食を止めべジタリアンになった
(僕のイメージの中では肉食は健康に良くなかったのだ)
そして毎日散歩するようになった。


しかし気にすればするほど胸の痛みは強さも頻度も増していく


僕はすぐにでも死ぬような気になっていった
そして僕の死後、独りこの部屋で暮らすYを想像すると
Yと自分が哀れで涙が出てきた


Yもさすがにそんな僕を扱いかねて
「ねぇ、そんなに心配なら、お家に帰ったら?」と言ったりした。


その死の床で僕は
美味しんぼ」と「ドラえもん」を耽読した
なぜだか安心するのだった。


胸の痛みは今考えるとおそらく肋間神経痛だったと思われる
やがて暖かい季節になると痛みは止み、やがて消えてしまった。


それから、しばらくしたある日
現代思想にかぶれていた僕は、
自分なりに考えた
自分の思考がどう流れるのかを客観的に観察するという実験を
試みた


実験を始めてしばらくすると
まるで自分が自分でないような、見知らぬ他人のような気がして
恐ろしくなってやめた。


そう、
この時期、僕はけっこうキはじめていたのだった。


いつもどこかイライラするような感じと掴み所のない不安がつきまとい
それが段々強く大きくなっていった
なにか縋り付くものが欲しかった。



そういえば丁度同じ時期
フランス留学から帰国した高校の同級生Oが
自分の頭がおかしくなったと訴え始めた。


しかし僕からみたOは至って正気で少しもおかしくなった様子はなかった
しつこく自分の異常さを訴え続けるOに嫌気がさした僕は
「お前は正常だ、ただ逃避のためにおかしくなったと思い込みたいだけだ」
と言って突き放した。


しかし、僕も人のことは言えなくなっていた
たとえ気のせいに過ぎなくても辛いものは辛いのだ。


以前に読んだ精神療法の本に「森田療法」というのがあったのを思い出し
僕はすがり付くようにそれに打ち込んだ


森田療法というものを僕の理解で簡単に言うと
僕の様な人間は神経質で完ぺき主義者で
それがいわば空回りしているところからいろんな疾患が生じている
だから、むしろ徹底して完ぺき主義に徹しきることで症状を緩和させるということだった。


具体的には、例えば字を書く時には
一画一画を可能なかぎり丁寧に書くということになる、
もちろん字を書くときだけでなく生活のどんな細部にまで
そのような丁寧さを徹底するというのが
この療法が教える方法だった。



僕は、これを実践することで
だいぶ自分の状態がましになっていく気がした。


今から考えると
特に森田療法の理論が図に当たっていたというよりは
とにかく、どんな形ででも生活態度を改善したのが良かったのだと思う。


森田療法が教えることのひとつに
「恐れに突入する」というのがあった
これはたとえば自分が赤面するのを恐れてすべきことが出来なくなっている人は
赤面を治すことは一旦棚に上げて、
赤面してもいいからするべきことをせよということだ


それを当時の僕に当てはめると
アルバイトをするのが怖くても、怖さを克服しようと虚しい努力をするのではなく
怖いままでアルバイトをするということになる。


アルバイトをするのが怖いのかと言うと
これは微妙な問題だけれど、
だけど僕は世間と関係を持つことを確かに恐れていた。


僕が昼夜が逆転した生活を送っていたことは以前書いたが
この逆転を治すために
僕は昼間寝ずに起きていようと何度も試みては
眠気に勝てず寝てしまい起きては後悔するということを
何年も繰り返していた。


そしてこんなことではバイトも出来ないと
満更エクスキューズとしてだけでなく
本気でそう思い込んでいた


しかし言うまでもなく、これは順序が逆だ。
仕事を始めてしまえば嫌でも決まった時間に起きねばならず
そのうち生活のリズムは整ってくる


こうしたことも、ある意味で森田療法の応用問題だと思う。


さて、こうしてさすがの僕も
いよいよ、これまでとは違った覚悟で仕事なりアルバイトなりに
向き合わなくてはいけなくなった。


ヒモになって約5年もの生活が経過していた
19歳だった僕はこのとき24,5歳になっていた。

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本筋には関係ないけれど、思い出したので
極め着けに格好悪い話を書いておこう


あるときYとTVでSMAPの番組を観ていたとき
僕は以前から思っていた不満をYに向かって吐き出した
曰く
「俺だってチャンスさえあれば、
 SMAPに負けないくらいの人気者になれるはずだ
 たまたまラッキーだった奴等がこんなにちやほやされてるのはおかしい」


これにはYも呆れた
僕の言うことなら大抵はこころから賛同して聞いてくれたYでもだ


それはそうだろうと今なら思う
始終ゴロゴロ寝てばかりの男が他人を批判しているのだ


しかもあろうことか
人気絶頂のアイドル・グループに嫉妬しているのだ
これではYでなくても二の句がつなげまい


人間というか僕は
バカになるとどこまでもバカになるのだった。