14、長続きしない

この時代他にしたアルバイトには、
宅配便の荷物の仕分けなどがあった。


経験のある人にはわかると思うが、これは結構ハードな肉体労働だ
そして職場の雰囲気はとてもピリピリしていて常に怒声が飛び交っている


僕はここで一晩だけ働いたのだが、
実のところ、ほんの数時間働いたところで
「バカ」と怒鳴られたので頭にきて
そのまま帰ってしまったのだから
本当は一晩とさえいえないのだった。


始発をまって家に帰りYに事情を話すと

Yは、
「ダーリンはそんなところで働かなくっていいよ、
ダーリンのひとりくらいハニーが養ってあげる」
と言ったものだ
本当にこの男はどこまでもバカで
女はどこまでも甘いのだった。



それから印象に残っているのはパン工場


しかし工場ほど自分に向いていない職場もないと思うのだが
僕はこのころそんな選択ばかりしていた


なぜなら人とコミュニケーションをとることが苦痛だったからだ
そして、よく考えもせずに発作てきにバイトを選ぶから
いつも自分に向かない仕事を選びますます仕事恐怖症をこじらせていった
典型的な悪循環だ。


さてパン工場では
当時ハタチそこそこの僕より若そうな女の子が
本当に涎でも垂らしそうな顔で僕をじっと見ていたのを思い出す
ああいうのを淫蕩な目つきと言うのだろうな


本当に刺激のない環境にずっといると
例えばああいう目つきで人を見たりするようになるんだろうと今になり思う。


工場の別の場所では
丸坊主のタマのドラムというか、山下清画伯みたいなルックスの人が
今度は涎でなく鼻水を壮絶に垂らしながら働いていた
僕は、ここはアウェイだなとしみじみ思った。


このパン工場は2日で辞めた。


いくらか長続きしていたバイトには
交通整理があった


ここで仕事上の相棒になったおじいさんは
童話を書いているとのことで、
あるときイタロ・カルヴィーノの名前を僕が口にしたことから
意気投合し仲良くなった
このバイトで覚えてるのは冬の寒さと足の痛さとこの事くらいだ。


長続きしてたといっても
せいぜい一ヶ月弱ぐらいで僕はこれも辞めた。


それから当時の鶴川駅の駅ビルに入っていた
パスタ屋でも一ヶ月ほど働いた。


前にも書いたが僕は、
仕事先で上司や先輩などと一緒に働くとなると
極端に萎縮ししまい
挙句は挙動不審のようになってしまうのが常だった


このパスタ屋での僕は正にそれで
僕のあまりの無能ぶりに店長は怒りを通り越し呆れていた
そしてアルバイトの大学生といっしょにそんな僕を哂うようになった
僕はもちろん恥ずかしく悔しかった
もう二度と飲食店では働くまいと思った。


ここは一ヶ月ほどで辞めた
突然の職場放棄でなく、事前にちゃんと辞めると予告して辞める
という当然と言えば当然の辞め方をした初めてのバイトだった。


それから、やはり鶴川駅前にあった本屋でもアルバイトをしたことがあった
ここでは印象深い事件があった。


僕が働き始めた当初からずっと
いつも同じおっさんが書店の裏の通用口から店に入ってきては
エロ本コーナーに陣取り、
当然のようにごっそりとそこで物色したエロ本を代金を払わずに持ち去っていくのだった


あまりに堂々とした様子でとても万引きとは思えないし
他の店員も見咎めない
あるとき店主に尋ねると
「ああ、いいのあの人は」と言う。


そのうちに僕にも様子がしれた
エロ本のおっさんは店主の友人で
どうも本屋の裏手にある本屋の倉庫に住んでいるらしいのだった。


そして店主と彼とはギャンブルとかそういう類のちいさな悪事でむすびついているように
思われた
むしろ店主が完全な居候である彼に一目を置いているような様子や
頭が上がらなそうな様子から察するに
どちらかと言うとエロ本のおっさんの方が店主より兄規格だったように思われる。



そのうち僕とおっさんは挨拶を交わすようになった
おっさんは、大人の前では借りてきた猫のようになる僕を
どうやら気にいったらしかった
あるいはおっさんは僕に同じダメ人間の匂いを嗅いだのかもしれない


ある日、仕事が終わり帰り支度をしていると
おっさんに呑みに誘われた。
当時の僕におっさんの誘いが断れたはずがない
その日、Yは帰省していて僕はひとりだった。


いかにも場末のこれ以上場末にはなりようがないというような
小さなカウンターだけのスナックで飲んだ
僕はここで初めて豚足を食べた
おっさんは、もうどこまでもおっさんなのだった。



店が閉まり彼の寝泊りしていた本屋の倉庫に行った
返品の本が詰まった段ボールが積まれた倉庫の
いっかくに万年床とコタツとおびただしいエロ本があった。


おじさんは身の上話をはなしはじめる
これ以上女の子が嫌いそうなシチュエーションが他に考えられるだろうか?
これ以上気が滅入るシチュエーションが他に考えられるだろうか?


しかも、おっさんが言うには
彼は以前は高校教師だったというのだ
そして問題を起こして教職を追われたというのだ
そういう過去はいかにも彼にふさわしく思われた。


言いながら彼は注射器を取り出し、それをなにやら透明な液体を満たした。
彼はそれを自分の腕に注射した。


しばらくなにかに耐えるように目を閉じていた彼は
目を開けて
「なんだかわかるか?シャブだよ、どうだよお前もやってみたいか?」
と言う


僕は必死に拒絶した。
彼はあまり熱心には勧めず、
注射器にわずかに残った液体を僕の飲んでいた缶コーヒーに注いだだけだった。
「これだったらポンプより怖くないだろう、な?」


僕はコーヒーを飲んでいる振りをして
けっして口には入れなかった。


いかに自然にここから脱出するか?
僕の頭はそのことで一杯だった。


やっとタイミングを見つけ、おっさんに
「帰ります」
というと気持ちよくなっているおじさんは
「おっ、そうか」
とごく普通に言う


ホッとした瞬間あろうことか
僕は思わず手にしていた缶コーヒーを飲み干してしまった!!


生きた心地もせずに家に帰った
急いでうがいをするけど、飲んでしまったものはもうお腹のなかだ
うがいぐらいでどうにもなるもんでもない


いくら待っても何も変わったことは起きない
しかし薬以上に
おっさんの腕に一旦刺さった注射器から出たものを
飲んでしまったのが恐ろしかった
僕はきっとエイズに感染したに違いない
と思った。


今考えると、たとえおっさんが本当にキャリアーだったとしても
この経路でHIVに感染する可能性は非常に低い
しかし、僕は無知で恐れに取り付かれていた


僕はまんじりともせず朝を迎えた。


本屋もやはり一ヶ月ほどで辞めた。

13、アルバイト

Yと暮らし始めて一年ぐらいのことだったと思う
僕は一念発起して、住み込みのバイトを探し始めた。
別に住み込みのバイトでなくてもよさそうなものだけれど
当時の僕は
「このままYに甘えていてはダメだ、家をを出なければ」
と頑なに思い込んでいた
この辺がバカのバカたる証拠だろう。


最初、なぜだか千葉の方にあった
水道管の工事をする会社に面接に行った。


毛皮のコートを着て面接に行った僕に
柔らかい物腰しの担当のおじさんは、
「君ね、こういうときはそんな服で来てはいけないんだよ」
と優しく言った
そして水道工事がいかにキツい仕事かと諄々と諭すように説明するのだった。


それで完全に腰の引けた僕に、おじさんは
「私も、いまでこそ、こんなことしてるけど昔は銀行員だったんだ
君ね、自分のプライドに吊り合わない仕事をしてはだめだ、
それでは結局長くはつづかないよ」
というのだった。


それで目から鱗の落ちた僕は、
それまでの職探しに対する安易な態度を深く恥じ
自分に本当にあった仕事を探しはじめた


と、言うようなことはもちろん一切なく


結局、僕は都内で高層ビルのガラス清掃の会社で働くことに決まった。
面接で、たまに墜落事故があり
それで死ぬ人がいると言われたのは多少気になりはしたが・・


そして尾崎豊宮崎勤を輩出した街
埼玉県の朝霞市にあるその会社の寮に住むことになった。


引越しの前日、僕はメソメソ泣いてばかりいた
これは比喩ではないのだ
20歳を過ぎた男が、これしきのことで本当に涙を流していたのだから
呆れるというかなんというか・・
そのわけは自分と別れて一人で住むYが哀れだと言うのだ
当のYがケロっとしているというのに。


この時から5年後、そのときバイトしていた会社の寮に引っ越すときには
Yの気持ちなど全く省みることもなく、
むしろウキウキした気分で引っ越したのだから
この男の「可哀そう」も涙も全く信用するにはあたらない


このときも結局は何でも許し甘えさせてくれるYとの
擬似母子的な環境から、それなりに厳しい世間に出るのが嫌で
それを勝手にでっち上げたYのさびしさにかこつけて泣いただけだったのだ。


寮は、家族用の4LDKくらいのマンションで
(もちろん僕一人でそこに住むわけではなくそこの一部屋が僕の部屋となるのだけれど)
かなり迫力のある汚さのそこに実際一晩すごすと僕はかなり心細くなってしまった。


越した次の日、早朝から仕事にでる
都心のビルが現場だ。
新前の僕はロープにぶら下がることはせずに済んだ
僕が命じられた仕事というのは
人が吊り下がっているそのロープが
変な風に絡んだりだとか、通行人の邪魔になったりしないように
ただひたすら監視するという退屈極まりないものだった。


昼までには、僕はこの仕事が心底イヤになっていた
そしてYを思い出すと涙が出た
昼休みに僕は現場の責任者に辞めさせてくれと切り出した
彼は
「なんでも始めたばかりの仕事はつらく感じるものだ、慣れるまで我慢しろ」
と実に当然なことを言ったのだけれど
僕は頑なで今すぐ辞めるのだと言い張った
そしてせめて今日一杯ぐらいは働けという責任者の制止を振り切って
そのまま会社に向かった


事務所で僕は
あらゆるスジの通った説得に耳を貸さずに辞めると言い張った
だったらせめてやめる理由を
「仕事が合わない」ぐらいにしておけばいいのに
この男は「残してきた同棲相手が可哀そうだ」というと言うのだから
完全にどうかしている。
僕が、理由にならない理由を振りかざして頑張ったものだから
会社の皆さんも
「ああ、こりゃダメだ」と気づいたのだろう
「こっちは引越し代払ってるんだよ」と言いはしたものの
結局僕を辞めさせてくれた。


その夜、Yが車で迎えにきてくれた
さすがのYも呆れ果てていたのかもしれないが
Yの態度からは少しもそんな雰囲気は感じられなかった
この天使のような人は本当になんとも思ってなかったのかもしれない。

12、音楽活動?

話は前後するがYの家に引っ越して一ヶ月足らずの時期に
結果として二週間で戻ってくる羽目になったのだが
僕は山形を生活の拠点にすべく
一旦、Yの家を出ていた。


当時、高校時代の友人Mが山形の大学に在籍しており
そのMから山形市内にあるビートルズ・マニアが集うカフェで
ビートルズの曲ばかりを演奏する、いわゆる箱バン
つまり常駐してBGMを提供するバンドを募集しているので
一緒にバンドを結成してオーディションを受けてみようと誘われたのだ。


どう考えても、当時の僕の演奏力でそんな仕事が勤まるはずがなかったが
僕はその誘いに乗ったのだった


先にも書いたが僕は二週間で尻尾を巻いてYのもとに帰った
その直接の理由はMが飼っていた子猫の「ササカマ」だった。
その時まで僕は自分で知らなかったのだが
重度の猫アレルギーだったのだ。


僕はMの家に居候する計画で山形に行ったのだが
猫がそばに来ると、もう喘息のように喉がヒューヒューとなり
呼吸が困難になるのだから、とても練習どころじゃない
それどころか生きていくのも危ぶまれた


そんなわけで再び東京に帰ることになった
Mに帰りの電車代を借りたら
担保として大学時代に買ったアンペグのクリスタル・ギターを取られた。


東京に帰ると秋が始まっていた。


さて、このヒモ時代に僕がした、
寂しいかぎりの音楽についての活動をここでざっと見てしまおう。


僕は、東京で件のMと一緒にバンドを作った
山形在住のMが月に数回上京するという力業で可能にしたバンドだった
僕はギターを担当した。
このバンドにはすぐ後に、やはり高校の同級生だったSTがベースで参加し
STが当時武蔵野美術大学の学生だったことから
武蔵美の連中がボーカル、ホーンなどで参加してきて大所帯のバンドになった
一時はピアノも弾けるYがキーボードで参加したりもした。


当時は渋谷系アシッド・ジャズの時代であり
僕らはそんな音楽を演奏するために集まったバンドだった。
だけど、周りの連中がしない渋い選曲をしようぜなんて言い合う
つまりは気が利いてるつもりで死ぬほど凡庸なバンドだったのだ。


このバンドについて良く覚えているのは
働かない僕は、スタジオ代をYに無心するしかなかったのだが
練習のある日、集合時間近くなっても
どうしてもYに金をくれといいだせなかった僕に
Yが珍しく苛立った態度を見せたことだ。


金の無心そのもより、はっきりと言わない僕の態度が気に入らなかったらしい。


僕はバンドをすぐ抜けた
自分の思うようにならないことは、なんでもすぐ辞めるのだ。
集団行動は無理だった。


その後、僕は音楽理論をかなりの熱心さで勉強するようになった。


いわゆるバークリー・メソッドに代表される一般的な理論よりも
そのような一般性からの脱出を目指すような理論が好みだった


先鋭的な音楽理論を学んで
大向こうを唸らせる音楽を作れるようになってやろうだなんて
またしても凡庸極まりないことを考えていたのだった。


坂本龍一音楽史」や
同じ著者(山下邦彦)の
「チックコリアの音楽」
ビートルズの作り方」
などがバイブルになった


特に「チックコリアの音楽」は難解であったけれど
そのシステマチックな体系に魅せられ
何冊もチャートなどを作成して勉強もしたし
その理論から演繹される和音の積み方をギターに応用すべく
沢山の表を作成した


しかし、結局それは机上の空論そのものだった
そのことには途中で気づいたが
勉強を止めることはできなかった
僕は他の全ての事柄と同じように音楽についても
頭でっかちであった
理論に技術も読譜力も、なによりも耳がついて来なかった。


「全ての音楽の理論は事後的に音楽を説明できるかもしれないが
実際の作曲に先立つ理論はない」
という坂本龍一の「坂本龍一音楽史」での発言を
膨大な時間をかけて追認したにすぎなかったわけだ。



実際にこのころの僕はまだ一曲の習作さえ作り上げて
はいなかった。


このころの僕は
表向きは黒人音楽至上主義者だった
黒人音楽それも
ブルースに近いコテコテしたものしか認めなかった
サザン・ソウルとかファンクとか


それから第三世界のフィールド録音されたような
民俗音楽をことの他評価していた。
要は非商業的な音楽なら素晴らしいという
稚拙な思考があったのだ


結局、要するにそこいらに蔓延していたルーツ崇拝というウイルスに
感染しただけのことに違いない


今思えば、なぜブルースに近ければ根源に近いなどと言う
粗雑なイデオロギーを信じたのか不思議な気がするほどだ


イスラム圏に近いアフリカの音楽は確かには
北米のブルースに似たところがないわけではない
だけれどアフリカでも南にちかくなると
音楽はあっけらかんとしたトライアドのニュアンスを持つようになる。


それだけ考えてもブルース=ルーツはだいぶ怪しくなってくる
第一なんでルーツが偉いんだ?


黒人音楽にしろ民俗音楽にせよ
どちらも音楽としては
確かに良かったけれど
だけど何か理由をつけて
だから特別にいいというのは全部嘘になる。


それらは特別に良かったのではなく
他の音楽と同じように良かったのだ。


表向きは黒人音楽至上主義者と書いたが
実際にはとてもミーハーな音楽とされてるものだって
結構好きだった。


主義なんて全部、名刺だろう。

10、典型的な一日

ヒモ化のプロセスなんて言ったものの、
特別な何かなどあろうはずはなく
ただ、なしくずし的に働かなくなる男と
それを養う女がいると言うことに尽きた。


僕の場合も、そのうち、そのそのうちとバイトを探すのを繰り延べているうち
持ち金が、あっという間に底を付いた
なぜだか町田のレコード屋さんでディズニーのCD三枚組みのボックセットを買って
最後の一万円札を崩したのを鮮明に覚えている。


というわけで
お金はなくなった。


Yは当時、薬科大の4年生でとにかく実験に忙しかった。


だからというわけでもないけれど
まだ僕の手持ちのお金が尽きる前に
自分で材料を買ってきて
Yの好物だと言う親子丼をさんざん試行錯誤して作ったのをきっかけに
(なぜかこのとき食卓にプラムがあったのを覚えてる、
はじめて自分でくだものを買ったせいかもしれない)
いつの間にか僕が夕飯のしたくをするようになっていった。


そのうち、Yは出掛けに夕飯の食材代として千円ぐらいを置いていくようになった
今から考えるとだいぶ少ない金額のような気がするけれど
当時はこれで、二人分の夕食費と僕のタバコ代をまかなっていたはずだ
考えてみると本当にそれで間に合ったのかどうかかなり不思議な気がする。


僕は、金のかからない男だった
そもそも部屋にいるのが大好きでどこにも出歩かないし
ギャンブルもいっさいしない
アルコールは一滴も飲まなかったし
趣味らしい趣味もない


ただ本さえ読めればよかった
本なら図書館で借りられたし、古本屋の店頭で百円でも買えた。


考えてみれば僕は小学生ぐらいから基本的にはずっとそうだった
家の中で本を読んでいれば、いくらでも時間がつぶせた。


そしてギター
高校時代バンドでギターを弾いていたというYは僕より
ずっとはるかにギターが上手だった
というか、まぁ当時の僕より下手な奴はなかなかいないと思うけれど
僕はYのギターで練習を再開した
いつかは流暢に弾けるようになると信じて
気が遠くなり様な長い道のりを辿り始めた。


言うのも恥ずかしいことだけれど
当時の僕はいつかロック・スターになるつもりだった。
なんととまぁ凡庸なダメな男のパターンにはまっていた事か!


そしてヴォイス・トレーニン
新聞配達時代に本を通して、この自分にとっては新しいメソッドに触れた僕は
これで下手な歌が上手くなるかもと
そこに一縷の望みを託したのだった。
しかし、そのとき僕の買った本に記されていた方法はなんとも非科学的なもので
真に受けて練習した時間がそっくり無駄になるという代物だった。



だから、実に5年もつづくこの6畳の1Kでのヒモ時代の典型的な一日は次のようになる。
(Yは大学卒業後、国家試験に合格し薬剤師として就職した)


昼夜が逆転した生活のため起床は良くて昼過ぎ、夕方のことも珍しくない


ぐだぐだな時間を過ごす


ギターを手にし好きな曲をコピーしようと試みるが出来ないので、別な曲にとりかかるがまた出来ない


さて本でも読むか。


何度も読み返した本に飽きて寝そべってギターを弾く
音を消したTVで古いアメリカ映画を見ながら、身にならない練習の真似事


そうこうするうちに午後の遅い時間になる


ヴォイトレをするがメソッド自体が精神論みたいなもので、
具体性がないのでいつも不完全燃焼な感じに終わる


さて本でも読むか、もういい加減読み飽きたなこの本は


おっともう外は真っ暗だ、そろそろ買い物にいこう


近所のスーパーへ
この唯一の外出の時間に、僕はお金に余裕があれば
ヤマザキのアップル・パイを買って食べた。
当時百円のそれを喜んで買っている自分が哀れなような、
子供にかえったようでいじらしいようなそんな気がした。


Yが帰ってくるので一緒に夕食。
献立は矢鱈とホイコーローが多かった気がする。



食後TVを見る。


Yはそのうち、先に寝る。


チャンネルを矢鱈と買えながら深夜番組を見る
ビデオに録った竹中直人監督の「無能の人」を何度も見返した。


深夜の映画番組でおなじ映画を2回目に見たときはゾッとした
俺はいつまで、暇つぶしの生活をつづけるつもりなのかと。


オリンピック放送もそうだった、
はじめてYの部屋に来たころTVではオリンピック中継が花盛りだった
それから4年が過ぎ
ふたたびオリンピック放送がはじまったとき
僕は次のオリンピックまでには、この暮らしから抜け出さねばと
さすがに思ったのだった。

9、ヒモ入門

なにも別に、子供の頃からヒモに憧れていて
将来はヒモになろうと固く誓っていて
ヒモになったんじゃない。


ひとえに働きたくなかったからヒモになってしまったのだ。


働かずに何とかなる間は働かない、
そのうち世間にでて働くのが怖くなる
まぁ、そんな仕組みなのだろう。

就職しようなどとは髪の毛一本分も思わなかった
何せバブルの只中に思春期を送ったのだ!!
人生はどうにでもなる! 
と社会はそんなメッセージを送り続けたし
僕もそんなメッセージしか受け取りたくなかった。


そして僕もまた、ご多分に漏れずロックが好きだった
その背景などを吟味することもなく
自分勝手に生きることを肯定する気分だけを取り入れた
耳に痛いことをいう連中は全て反動的な「ダサいやつ」で「潜在的ファシスト
だった。


ここに至るまでの僕の労働に関する経験について話そう


最初に経験したバイトは、
高校時代に、母親の経営するコンビニのレジだった
これは、もう初日にすっかりイヤになった
なんせ退屈でしにそうだったからだ、
だから適当な口実を作って2週間ほどで辞めた。


それからやはり高校時代に進学塾の講師をする
これは結構楽しかった。


大学生になると
夏休み帰省したときに
父親の建設会社で現場監督助手をやらされた
これは本当に閑職で、どう考えても必要のないポジションだった
父親としては将来会社を継がせるための足がかりと考えてやらせたのだろう。
これも、そうとうにヒマですぐに辞めた。


それから春休みに伊豆の温泉旅館で住み込みのアルバイトをしたな
僕は風呂係で
これは、午前中に男女の大浴場、露天風呂、家族風呂を掃除して
午後からは風呂の温度の調整をするという内容だった


この係は、僕一人だったということもあり
いたって気楽なもので、春の快晴の日に目の前に伊豆の海をみながら
タイルをデッキ・ブラシでこすっていると、鼻歌がついついこぼれ出してきた。
一旦お湯を抜いた大浴場に、再びお湯を張っているあいだ昼寝をしていて
起きたら廊下までお湯が溢れていたという、
漫画みたいな事件もあったりした。


ここすらも労働条件が何だとか、左翼っぽい因縁をつけて契約より早く辞めて帰ってしまった。


それから大学時代は、ガラス工場で2晩ばかりバイトをした
これは本当に苦しかった
経験した人は分かるだろうけれど、五分が一時間にも感じられる
僕には気が変になりそうなぐらいに感じられた。


総じて楽そうな、気楽そうなバイトを選ぶばかりに
かえって退屈で自分にとってはつらいアルバイトを選んでばかりいた気がする。


それから、なにが原因なのか
僕は、教師や職場の上司などに対して、どうにも卑屈になるところがあり
気分的には不良でいたい自分にとって、そうでいられないバイト先はそういう意味でもイヤで仕方がなかった。


さらに僕は当時バイト先では
典型的な「出来ないヤツ」だった
とにかくアガってしまって、受け答えも満足に出来なくなる
そうなると指示が頭に入ってこなくなってトンチンカンなことばかりする。
人の目が気になって、考えられないようなミスばかり繰り返す。
そのことを叱責されようものなら焦ったあげく、さらにミスを繰り返す。
これでバイトがイヤにならないはずはない。


長々、仕事が嫌いになったわけを書いたけれど
それとヒモになることが直線に結びつけられるはずはない


次回は、具体的にヒモ化のプロセスを見ていこう

11、ハニーとダーリン

そこに一枚の紙があった。
紙の上には、手書きの四コマ漫画が書かれている
それは次のような内容だ


1コマ目、ハニワが家の前に歩いてくる セリフ「ただいま〜」
2コマ目、それを聞いて布団で人間のように寝ていた犬が跳ね起きる
3コマ目、尻尾をふって二本足で走っていく犬
4コマ目、抱き合っているハニワと犬


これは当時、Yが書いた
僕とYの暮らしを描いた漫画だ。


つまりハニワがYで、僕が犬ということだ。


僕はこれをはじめてYに見せられたとき胸がつまるような感じがした
嬉しいような、悲しいような、泣きたくなるような気持ちだった。


そこには何やら愛のようなものが描いてある気がした。


Yは
純粋無垢などという他では使う気になれない言葉を使いたくなるような人だった
僕に限らず他人を疑うこと知らない浮世離れしたあどけなさがあった
他人の言動を当然のように善意に解釈した


だからと言って童女のような人かというとそうでもなく
確かにどちらかと言えば子供っぽい人ではあったが
むしろ理性的というかクールというか
感情をあまり外に出さないタイプの人であった


意志が強く、ごく一般的な意味で真面目な人柄だった。
しつけがいいと言うのか
まるで時代劇に出てくる凛としたお姫様のようなといえば
多少はイメージが持てるだろうか?
考えようによっては非常に都合のいい女にもなるような感じの人であった。


僕は自分が立派でないので立派な女の人は苦手なのだが
Yは立派でありつつも、自分が立派であると言う自覚がまるでなく
だからそこから来るエゴの匂いのほとんどしない、
僕のような人間もプレッシャーを感じずに済むという
今、よく考えると本当に得がたい美徳を持った人だった。


僕は長い間、彼女を身近に見たがどんなときもその人となりは全くぶれなかった
自然体でそんな人だった。


このようにYを美化することは、Yの実像を遠ざけ
Yにはかえって、ありがたくもない虚像を押し付ける結果になっていたのかもしれない
今なら、そのことがわかる


とはいえYと暮らし始めて、
僕は、数少ない友達連中から
お前はは丸くなったと盛んに言われるようになった
実際にそれまでの僕は、やたらとトゲトゲしていた
なによりも毒舌だったし、その矛先を周囲にも向けることも多かった
たしかにYのおっとりとした性格は僕に何がしかの影響をもたらしたようだった。


ある日、Yの車で少し離れた場所にある「いなげや」に買い物に行った
そこは丘の上にあって西日がまぶしかった
僕はふと、いつかもしYと別れて今日のこの時を思い出したら
悲しくて耐え切れないだろうと思い
そのことをYにも伝えた、Yは怪訝そうに聞いていた。
僕はあの時、未来から今を見ようとしていたのだろう


さて、今、あの夕方の丘を思い出してみよう


少しも悲しくない。
かって思い出して悲しくなったことがあったかどうかも思い出せない
あてにならないもんだな。


さて感傷がテーマの今回だ
つづけよう


僕は、ヒモだったから
いつもYに負い目があった。


いやそれは微妙に違う、
負い目があるような気がしていただけだったと言う方が事実に近い
確かに経済的に依存していたから関係が強くなり
そして長持ちしたということは事実だろう。
だけれど、負い目からYに気を使っていたと言うのは本当じゃなかった
そのときは分からなかったが、交際相手に気を使うのは僕の「素」なのだから


それは例えば高校生だったときの恋人との関係を思い返しても
容易にわかることだったはずなのに
「負い目」への幻想がそれをわからなくしていた
そして、それはこのような不自然は是正されるべきだと言う
「自然」を求める窮屈な考えを僕にもたらした。


後に、こういうこと達が微妙な陰影を僕らの関係に与えた。


冬になるとYはいつも布団に入らずコタツで眠り込んでしまった
僕はまるで殺した死体を埋めるときの要領で
Yの脚をひっぱって布団に連れて行った


そんな時、僕はこの上ない幸せを感じた
なにか、ふたりの関係がいじらしいものであるような、
変に泣きたいような気分がした


しかし僕の中の違う部分はそんな幸福が気に入らなかった
子供の頃、家族で旅行に行った帰り
車が自宅の車庫に着いたときに感じる
もう旅が終わってしまったという
あの寂しい感じがこの幸福には付きまとっていた


おそらく家庭的な幸せには付き物のこの感覚を
この今ですら、僕のある面は許容できないでいる。

8、さいしょの同棲

夏がやってきた
下北沢にも、池の上にも、おまけに僕のアパートにも


僕はギャンブラーのおっちゃんに教えてもらった廃品回収業者から
格安でエアコンを手に入れ
三畳ひと間の自室に取り付けた


電源を入れる、無事入る。
しばらくするとちゃんと涼しい風が出てきた
と思ったとたんにブレーカーが落ちた
落ちたのは二階全体のブレーカーだったみたいで
刺青のお父さんが何事か怒鳴る声が聞こえてきた。


さすがにこのアパートはエアコンに対応していないようだ
それでも暑がりの僕はタイミングをみてはこっそりエアコンを使いつづけた。


涼しくした部屋で
海水浴の時のような格好をして、
必要もないのにカーティス・メイフィールドみたいなサングラスをかけて
ねそべってYが来るのを待っていると
刺青のお父さんの怒鳴り声やら、向かいの兄さんの「行こうよー」の呪文やらが
まるで波音のように心地よく・・・


そう、住めば都ってのは本当に本当で
僕はこの環境にすっかり適応していた。


Yとの関係は順調だった、
当時大学の薬学部の4年生だった彼女は実験につぐ実験に忙殺されていた
僕の方は新聞配達は気楽な仕事ではあったけれど
仕事柄生活のリズムは狂いっぱなしだった


時間を工面して逢えるときはいつもあってはいたが
ふたりともいつも寝不足で赤い眼をしていた。



悪くない生活ではあったが、僕はもう新聞配達が嫌気が差して仕方なかった
理由は飽きたということにつきる
普通はそれでも、ある程度は我慢をするものだろうが
僕には出来なかった。


店長に、すぐにでも辞めさせてくれと言いに行くが
当然、そう簡単には辞めさせてくれない
短気な僕は、早速Yに車で迎えに来てもらうように頼んで
夜逃げを決行した。


言い忘れてたけれど
例の「新しい恋人」つまりYの前の彼女のことは僕の念頭から完全に去っており
Yとのことも告げていないうえに
一切の音信も絶っていた


あとから共通の友人から聞いたところでは「新しい恋人」は
急に連絡の取れなくなった僕を茨城から下北沢に探しにきて
そこにもぬけの殻となった部屋を見つけたらしい


ひどい話だが、僕はその後何度もそれに類する
いやそれ以上に酷い所業をくりかえしたものだ


いや「くりかえしたもんだ」じゃねぇだろうという気はするけど。


ちなみに「新しい恋人」とはその6年後ぐらいに
たまたま再会するが、そのシチュエーションはこれ以上ないぐらいに最悪で
僕は本当に最悪な男となった。
いづれその時が来たら、それは説明しよう。


さて、夏の深夜に辿りついたのはYの住んでた
小田急線鶴川にあるアパートだった。


いくらもない荷物を部屋に運び込んで
いいにおいのコーヒーを入れた

夜当時の深夜番組「ミッドナイト・アートシアター」で「バグダッド・カフェ」をやっていた
真っ暗にした部屋で「バグダッド・カフェ」の画面の光だけが壁に反射していた
Yと一緒にそれを観ていた。


とおくで夏の虫が鳴く声がしていた