11、ハニーとダーリン

そこに一枚の紙があった。
紙の上には、手書きの四コマ漫画が書かれている
それは次のような内容だ


1コマ目、ハニワが家の前に歩いてくる セリフ「ただいま〜」
2コマ目、それを聞いて布団で人間のように寝ていた犬が跳ね起きる
3コマ目、尻尾をふって二本足で走っていく犬
4コマ目、抱き合っているハニワと犬


これは当時、Yが書いた
僕とYの暮らしを描いた漫画だ。


つまりハニワがYで、僕が犬ということだ。


僕はこれをはじめてYに見せられたとき胸がつまるような感じがした
嬉しいような、悲しいような、泣きたくなるような気持ちだった。


そこには何やら愛のようなものが描いてある気がした。


Yは
純粋無垢などという他では使う気になれない言葉を使いたくなるような人だった
僕に限らず他人を疑うこと知らない浮世離れしたあどけなさがあった
他人の言動を当然のように善意に解釈した


だからと言って童女のような人かというとそうでもなく
確かにどちらかと言えば子供っぽい人ではあったが
むしろ理性的というかクールというか
感情をあまり外に出さないタイプの人であった


意志が強く、ごく一般的な意味で真面目な人柄だった。
しつけがいいと言うのか
まるで時代劇に出てくる凛としたお姫様のようなといえば
多少はイメージが持てるだろうか?
考えようによっては非常に都合のいい女にもなるような感じの人であった。


僕は自分が立派でないので立派な女の人は苦手なのだが
Yは立派でありつつも、自分が立派であると言う自覚がまるでなく
だからそこから来るエゴの匂いのほとんどしない、
僕のような人間もプレッシャーを感じずに済むという
今、よく考えると本当に得がたい美徳を持った人だった。


僕は長い間、彼女を身近に見たがどんなときもその人となりは全くぶれなかった
自然体でそんな人だった。


このようにYを美化することは、Yの実像を遠ざけ
Yにはかえって、ありがたくもない虚像を押し付ける結果になっていたのかもしれない
今なら、そのことがわかる


とはいえYと暮らし始めて、
僕は、数少ない友達連中から
お前はは丸くなったと盛んに言われるようになった
実際にそれまでの僕は、やたらとトゲトゲしていた
なによりも毒舌だったし、その矛先を周囲にも向けることも多かった
たしかにYのおっとりとした性格は僕に何がしかの影響をもたらしたようだった。


ある日、Yの車で少し離れた場所にある「いなげや」に買い物に行った
そこは丘の上にあって西日がまぶしかった
僕はふと、いつかもしYと別れて今日のこの時を思い出したら
悲しくて耐え切れないだろうと思い
そのことをYにも伝えた、Yは怪訝そうに聞いていた。
僕はあの時、未来から今を見ようとしていたのだろう


さて、今、あの夕方の丘を思い出してみよう


少しも悲しくない。
かって思い出して悲しくなったことがあったかどうかも思い出せない
あてにならないもんだな。


さて感傷がテーマの今回だ
つづけよう


僕は、ヒモだったから
いつもYに負い目があった。


いやそれは微妙に違う、
負い目があるような気がしていただけだったと言う方が事実に近い
確かに経済的に依存していたから関係が強くなり
そして長持ちしたということは事実だろう。
だけれど、負い目からYに気を使っていたと言うのは本当じゃなかった
そのときは分からなかったが、交際相手に気を使うのは僕の「素」なのだから


それは例えば高校生だったときの恋人との関係を思い返しても
容易にわかることだったはずなのに
「負い目」への幻想がそれをわからなくしていた
そして、それはこのような不自然は是正されるべきだと言う
「自然」を求める窮屈な考えを僕にもたらした。


後に、こういうこと達が微妙な陰影を僕らの関係に与えた。


冬になるとYはいつも布団に入らずコタツで眠り込んでしまった
僕はまるで殺した死体を埋めるときの要領で
Yの脚をひっぱって布団に連れて行った


そんな時、僕はこの上ない幸せを感じた
なにか、ふたりの関係がいじらしいものであるような、
変に泣きたいような気分がした


しかし僕の中の違う部分はそんな幸福が気に入らなかった
子供の頃、家族で旅行に行った帰り
車が自宅の車庫に着いたときに感じる
もう旅が終わってしまったという
あの寂しい感じがこの幸福には付きまとっていた


おそらく家庭的な幸せには付き物のこの感覚を
この今ですら、僕のある面は許容できないでいる。